tenera_luno

無理しないでたまに頑張るブログ

ありのままで良いということ。否定しないということ。

今回、良い気付きがあったので、ついでに自分の棚卸をしてみました。

長いエントリですし、前回のエントリと被るところも多々ありますが、

心が疲れている方々の参考になれば幸いです。(読了時間6分程度)

 

私はずっと、両親が怖いと思っていました。抑圧され、否定され続けてきたからです。

両親から離れさえすれば、私のうつ病ももっと軽くなるんじゃないかと、思っていました。

しかし、最近、目の覚めるような出来事が起こりました。私の本当の敵が誰だか分かったのです。

私が恐れているもの。

それは、私自身でした。

私は、父や母の心の中に、己の暗い部分を自己投影して、怯えていたのです。

勿論、両親の性格や考え方は、私の人格形成に大きく影響していますが、

今現在、私の意思を決定づけているものは、両親ではなく、自分自身だったのです。

苛めより辛かったこと

私は、小学2年生の時に転校をして、それから中学3年生の時まで、苛められていました。

切欠は些細なことです。自己紹介で名を名乗ったら、「変な名前」といじられて、それを「自分が否定された」と受け止めてしまった私は、人と話す勇気が持てなくなり、暗い性格になっていきました。

最初はおどおどしていましたが、そのうち「そもそもこんな程度の低い人達と友達になる必要はない」と考える様になり、その横柄な態度が余計にクラスメイトの怒りを買いました。

自分の方が優位に立っていると思い込むことが、子供として精一杯の自己防衛だったのです。

苛められている時は辛いと思いましたが、モップの柄で殴られても、学校に来るなと云われても、登校拒否はしませんでした。

無視されている間は読書が楽しめたし、苛めという事実は、それほど自分を傷つけるものではなかったのです。

それよりも辛かったのは、苛められていることを、親に責められた事でした。親なりに、心配もしてくれたのだと思いますが、「友達がいないのはあなたが悪い」「友達がいない子は悪い子だ」と云われるのが、

つまり、親から私自身を否定されるのが、辛かったのです。

自分で自分を裏切ったこと

小学3年生の時、親の非難に耐えかねた私は、一計を案じます。

いじめっ子に、「なんでもするから友達のふりをしてください」と頭を下げたのです。

その時、私は、私の敵になったんだと思います。

それまで辛うじて持っていた自尊心を失い、自分に対する不信感でいっぱいになりました。

その時生まれた、辛辣でひねくれものの自己否定のカタマリの様な私は、未だに私の中に居て、私を非難し続けています。

周りの人には、正直者だと、素直だねと云われるのに、自分自身に対してだけは、どうしても正直にも素直にもなれません。

自助グループへの参加

今年の春ごろに、友人の強い勧めで、嫌々ながら自助グループに通うようになりました。

心に問題を持つ人の為の自助グループで、正直、参加者の話を聞くのは苦痛です。

グループで使用している冊子も、ハイヤーパワーなどと云ううさんくさい記述があり、最初は理解出来ませんでした。

元々アメリカで興ったアルコール中毒患者の為のグループが元になって出来た自助グループなので、

一神教の押しつけがましい教義のような文章ばかりで、多少の嫌悪感もありました。

聞けば、アメリカでは「神」と表現している存在を、日本では受け入れづらいだろうと云う事で、 「ハイヤーパワー」だの、「自分の理解する神のような存在」だのと言い換えたのだそうです。

我慢して読んでみたけどどうにもしっくりこない。

ハイヤーパワーの意味

最近、死んではいけない理由が分からなくて、生きていなくても良いのではないかと思い込み、

ちょっとこのままではやばい状態に陥ってしまった事がありました。

そして何か生きるための手掛かりが見つからないかと思って「自分を好きになる」系の本を探しました。

amazonのレビューを読んでいくと、「自分が、自分の友達になる事」が自信を持つために必要であると書かれていました。

私は自分に甘いけれど、決して優しくはありませんでした。

そのことに気が付いたとき、自助グループの謳う「ハイヤーパワー」なるものは、自分自身なのだと気づきました。

本来私の一番の理解者は自分自身なはずです。

自分を知るのも、認めることが出来るのも、許すことが出来るのも、自分自身なのです。

でも心に問題を抱えている人は、自分に不信感を持っている人が多いから、 神やハイヤーパワーに例えているのだと思いました。

自分にも他人にも責任は存在しない

この気づきを友人にメールで伝えたら、返信が来ました。

 

 >仏教的に言うと、如来様で如来様は宇宙であって私自身である

 

私を認め、許してくれる存在が私自身ならば、私自身が如来さまであり宇宙である、という言葉にも納得がいきます。

この場合の「宇宙」とは阿頼耶識(あらやしき)の事です。

私と神が阿頼耶識で繋がっている、そこに、自殺をしてはいけない理由もあるように思います。

自助グループの教えは、「自分が無力だと気付く」事が第一に大切だと説いています。

私は私に責任を持てないし、誰にも責任なんか無いのだと、やっと気づきました。

私と神が阿頼耶識で繋がっているなら、私と他人も阿頼耶識で繋がっているのですから。

みなが同一の存在であると云う事です。

責任がないという事の意味

責任がない、ということは、無責任で良いという訳ではありません。

自分の思考が、自分の手におえる範疇ではないからこそ、自分が責任を取れないからこそ、 道徳的な行動が、より、求められると云う事です。

そして自分以外の他の人の思考もまた、その人の手におえる範疇でもないから、誰にも責任がないのだからこそ、 相手を責めるのはお門違いだと思うのです。

ありのまま

自助グループでは、分かち合いの時間として、各々の思う所や体験を述べる場があります。

参加者の憎しみや恨みが全て私に刺さってくる気がして聞いているのが苦しいです。

なんてひどいことを考える人だろうとも思ったりします。

でも、思考には善悪はないのです。 上手い言葉が見つかりませんが、その人の思うところは本来自分の中で処理をして、 周りに嫌な思いをさせないのが思いやりだと思います。

私たちのように、心に問題を抱えている人たちは、自分の中で処理できないから、 この自助グループのように、おもてに出す場所が必要なのでしょう。

自分が誰かの言動で嫌な気持ちになっても、その原因となった人には責任は無いのです。

嫌だと感じた自分にも責任は無いのです。

先に書いたエントリと重複しますが、ありのままを受け入れることが大切なのだと思います。

 

そこまで気付いてもまだ、悪意を受け取った時の、自分の感情の消化・昇華の仕方が分かりません。

同情とは違うし、安易な同調も違う。無責任な反発も、違う気がします。

今、探しているもの

自分の思考は自由だし、自分は自分には責任を持てません。

だからこそ、宗教や心理学などの、様々な規範と云うベストプラクティスが受け継がれているのだと思います。

自分に負担になる事なく人を攻撃する事なく物事を処理出来るようになった時、 自分を(悪い意味での)ストレスから自由にしてあげる事が出来るのだと思います。

自分を解放するには、自分を理解し、認める作業が必要になります。

自分を認められないと、人の事も認められないと思います。

でもなかには私のように、人の事しか認められない、と云う人もいます。 そういう人が自分の事を認めるのは、難しいです。

それで自己憐憫に逃げるのです。 それが楽だからです。

こうありたい

自分のこの気付きを忘れないよう、大切にしたいです。

誰も悪くないのだと、誰かを許せない自分がいても、それすら悪くないのだと気付きました。

西郷隆盛は、「我を愛する心を以て人を愛するなり」.と云ったそうです。

私は、自分のことはまだ愛せませんが、敬愛する友人がいますし、尊敬する人もいます。

その人に接するように、自分にも他人にも誠実に接していきたいと思います。

 

ここまで読んで下さって、ありがとうございました。